2021年2月
濡衣塚
ひっそりと建つ“濡れ衣”伝承の碑
その板碑は国道3号線の千代町の御笠川沿いにあり、都市高速高架の真下のけん騒とは対照的に悲しげに、ひっそりと建っています。この濡れ衣塚はその名の通り「濡れ衣」の語源となった伝承の地にあります。
「聖武天皇の御代(724〜749年)筑前の国司として都より下向したのが佐野近世である。妻と娘の春姫を連れての下向であったが、妻は筑前で病死、そこで地元の女を後妻とし一子をもうけたのである。子どものできた後妻は世の常の通り、現在の『まま母』である。義理の娘をたいそう憎んだ。そこで地元の漁師をいいくるめて春姫がたびたび釣衣を盗むと近世に訴え出させたのである。半信半疑の近世はその夜、春姫の寝所を覗いた。すると姫の寝ているそばには濡れた釣衣が置かれているではないか。訴え通りの状況に近世は娘の言い分を全く聞こうともせず、その場で斬り伏せてしまった。
翌年、近世は女が一首の歌を詠むのを見た。『脱ぎ着するそのたばかりの濡れ衣は、長き無き名のためしなりけり、濡れ衣の袖よりつたふ涙こそ無き名を流す、ためしなりけり』この歌を詠む女が娘の春姫であると気付くと同時に娘を無実の罪で斬り殺してしまった事を近世は悟った。娘を罠にはめた妻と離縁すると、近世は出家して石堂川のほとりに塚を建てて肥前の松浦山に隠棲したという」
玄武岩で造られた板碑は康永3年(1344年)の銘が刻まれており、相当古くから旧跡として認識されていたようです
2021年2月